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新しい生活3

1回目はあっけなく終わった。

私が騎乗位で彼のいきり立ったペニスを咥え込むと、腰を使うほどもなくあっけなく果ててしまった。

回復するまで、ベッドに腰をおろして、話をする。

「先週の夜、あたしを見かけた時、なんで声をかけてくれなかったの?」
「かけたかったですけどね。あの時は、2軒はしごした後で持ち合わせが無かったんですよ。それに酔ってたから・・・」

「たぶんあたしが年上だと思うけど、何歳?」
「27っす」

彼は思ったより若かった。
実際は私がかなり上だったが、
「ああ、やっぱり、あたしの方が少し年上だわ」
と適当にごまかす。

「気にしなくていいっすよ。俺、かなりシスコンですから」

おしゃべりしているうちに彼のものがだいぶ回復してきた。
まだ20分も経っていない。
やはり若いから回復力が早い。

今度は、背面騎乗位で挿入した後、後背位に移行して彼のペースで突いてもらう。
彼のペニスがグイグイ入ってくる。
やっぱり若い人は元気がいい。
激しいピストン運動に、私も感じてしまい、「あっ、あっ、あっ」と声を出してしまう。

彼も高まってきた。
「ああ、順子さん、俺、もういっぱいっす、いいすか、いいすか、あっ、あっ!」

彼の2度目の噴射をアナルの奥に受け止める。

彼は身支度を整えると「俺、吉田って言います。また来月、給料日の後にお願いします」と言って出て行った。

シャワーを浴びながら考える。
今まで、私の常連客は自分より年上の人がほとんどだった。
同世代というのは朝倉さんくらいで、後はみな40歳代以上で、関口社長のように60歳に近い人もいる。

私にファザコンの傾向があるのは確かで、今まではそれでいいと思っていた。

だけど、年配の人たちは経済的には安定しているが、やはり精力は下り坂だ。

営業ということになると、今日の彼のように、やりたい盛りの年下の男性を積極的に顧客に開拓して、数をこなさないといけない。

少し営業方針を変えようと思った。

化粧を直して、ホテルを出るとき、時計を見たらまだ4時だった。

早い時間から感じてしまったので少し身体がだるい。
どこかで、コーヒーでも飲んで、夜の仕事に備えよう。

私は、ホテル街から靖国通り方面に坂を下り始めた。

 (了)




新しい生活2

1998年3月26日(木)

新しい生活になって、いちばん変わったこと、それは仕事ではない。

アナル娼婦としての仕事は、独り立ちしてからでも1年近く続けていたから、それほど大きな変化ではなかった。
もちろん、専業になってそれなりに力は入れるようになったが。

いちばんの変化は、日常的にずっと女性の姿でいられることだ。
もう、無理をして男の姿をする必要がなくなったことが、生活面でも精神面でもいちばん大きかった。

朝といっても昼近くに起き、シャワーを浴びて化粧して、カジュアルなファッションで昼過ぎの街に出る。
たいていは、(新宿)3丁目まで歩いて、少し遅めのランチを食べる。

平日で午後に予約が入っていない日で、お天気が良い日や必要な買い物があるときは、「伊勢丹」や新宿駅南口の「ルミネ」まで足を伸ばすこともある。

ランチの後は「紀伊国屋書店」に寄って本を買い、3丁目の喫茶店でコーヒーを飲みながら、のんびりした時間を過ごすことも多い。

そして、夕方近くにマンションの部屋に戻り、身体の内外を洗い、化粧を濃い目に直し、服を着替えて、夜の仕事に備える。

そんな日常になった。

今日も、3丁目の中華料理店のランチを食べた後、新宿通りを駅の方向に歩いていた。

「すいません。ちょっといいですか」と声がかかった。

何かのスカウトかなと思い振り向くと、30歳くらいの若いビジネスマン。

「あの・・・先週の金曜日だったか、夜中にこのあたり歩いてませんでしたか」
「はい・・・たぶん・・・」

なんだ、夜中、流していたのを見られたのか・・・。
「ニューハーフさんですよね」
「はい」
「売ってるんですか?」

そこまでわかっているのなら、話は早い。

私はバッグから名刺入れを取り出し、名前とPHSの番号が書いてある営業用のカードを渡した。
「私に興味があるのなら、夕方、ここにお電話ください」
と言って、歩きだした。

すると、男が追ってきて、
「すいません。夕方は時間がなかなか空かないんです。今じゃあ、駄目ですか?」
と言う。

時計を見ると、14時過ぎ。
まあ、いいか。
こういう時のために、外出するときは必ず極太のアナルプラグを装着しているし、バッグの中にはコンドームと潤滑液、それにマウスウォッシュの小瓶を入れてある。

「ホテル代別で、2時間2万円ですけど、いいですか?」
「OKです」

私は、タクシーを止めて男と同車すると、運転手に「歌舞伎町2丁目、ホテル街の奥の『サボイ』お願いします」と告げた。

(続く)

新しい生活1

1998年3月19日(木)

花柄の羽根布団の中で目を覚ます。
時計を見ると、10時を少し過ぎていた。

今日は朝倉さんとデートの約束だ。

専業娼婦になると決めた時に、宣伝・広報用の写真が必要なことに気付いた。
常連のお客さんの中で、カメラ上手の人を思い浮かべると、やはり朝倉さんが一番だった。

本当はもう少し早くに撮りたかったのだが、なにしろ2月から3月半ばまでは、税理士さんは超多忙だ。
朝倉さんも、自分の顧客の確定申告のほかに、地元の税務署に当番で詰めなくてはならず、スケジュールが取れなかった。

と言うことで、今日になってしまったのだが、その分、季節が進んでだいぶ暖かくなり、撮影には楽になった。

昼間、野外でポートレートも撮るので、約束は14時半。
そろそろ起きなくてはいけない。

いつものようにアナルを洗浄した後、化粧にかかる。
今日は、まず、昼間の光の下で撮影するので、OL風のメイクにする。
服も、一流ホテルの出張する時のブラウスとスーツ。

着替え用の衣装は、2セット、昨夜のうちに大きなスタイリスト・バッグに詰めてある。

マンションの下からタクシーを拾い、新宿御苑の大木戸門前へ。
歩けば10分もかからないすぐ近くなのだけど、この大荷物を担いで歩くのはつらいので。

ほとんど待つこともなく、朝倉さんが来てくれて、園内の庭園でスナップ撮影。

撮影を終えて、近くの喫茶店で一休み。
喫茶店のトイレで、セクシーな赤と黒のミニドレスに着替え、化粧も濃い目に直した。

暗くなるのを待って、歌舞伎町に移動。
今度はネオン街をバックに撮る。

朝倉さん、すごく力が入っていて、あちこちロケーションしながら1時間ほどかけて撮影。

やっと一段落。
お腹が空いたので、レストランで軽く食事。

そして、朝倉さんの車で、甲州街道・山手通りから246に入り、多摩川を渡っていつものSMプレイの設備があるラブホテルへ。

赤革の全身拘束衣を着せられ、プレイ・シーンの撮影。
まだ傷が固まっていないので、負荷は掛けられないが、乳首にもゴールドのリングピアスを着けて写真を撮られる。

さらに、これは広報用には使わないだろうなぁ、というようなハードなシーンも・・・。

結局、最期は朝倉さんとのいつものSM(拘束)プレイになってしまい、2回もイカされてしまい、もうヘトヘト。

マンションの近くまで送ってもらったのは、夜中の1時過ぎ。
ほとんど半日、付き合ってもらったことになる。

さすがに申し訳ないので、基本料金(2時間)2万円+SMプレイ2万円の計4万円だけいただき、延長料金はなし。

朝倉さんが別れ際に「いや~ぁ、久しぶりに楽しかったよ」と言ってくれたので、お礼の意味を込めて、熱いキス。

お風呂に入って、再び花柄の羽根布団に包まれたのは、3時少し過ぎだった。

(続く)

専業娼婦になる2

あたしは、1月の末に、原宿のピアス屋で、耳たぶにピアスホールを開けてもらった。

それまではずっとイヤリングだったが、暗い路地などでハードなSexをすると、よく外れてしまい、失くしてしまうことが、しばしばだった。

大学を辞めて、フルタイムで女性の姿で居られるようになり、やっとピアスをすることができた。

その同じ店で、2月の半ばに乳首にピアスをしてもらった。

正確には乳首の根元といった位置をニードルで貫かれ、さすがに耳たぶよりもずっと痛かったが、それ以上にマゾの血が騒ぎ、興奮してしまった。

乳首ピアスは、女として、専業の娼婦として新しい人生を始める記念のつもりだった。

ところで、肝心の営業の方だが、今までのNTTの伝言ダイヤルを使う方法でも十分な気がしたが、電話で専業になる挨拶を関口社長にしたとき「広告はどうするんや? 世の中、何事も宣伝やで、そこらへんは投資やから、ケチったらあかん」と言われた。

それで、社長が上京した時に相談して、印刷媒体の風俗広告に出すことにした。
新聞か雑誌か迷ったが、これも世慣れた社長のアドバイスに従って週刊誌の『アサヒ芸能』に小さな広告を載せた。

「ニューハーフ エスコートクラブ  
  新宿 渋谷 六本木 赤坂など都心各所  
    同伴1時間 5千円
    電話070-×××-×××× 順子」

もちろん「1時間5千円」は本番なし、ただ同伴するだけの料金。

広告の料金はたしか2万円だったから、1人でも本番に持ち込めばペイできる、という計算だった。

掲載は3月になってからだったが、効果は十分にあった。
かかってきた電話は20本近く、そのうち7人とデートして、5人は本番までいった。
そして、3人は、その後、常連さんになってくれた。

こうして、あたしの専業娼婦としての生活が始まった。

(了)





専業娼婦になる1

2月10日、あたしは最期まで残っていた試験の採点を終え、成績表を記入して大学に郵送した。
これで大学教師としのあたしの仕事は全部終わった。

9月に新宿のマンションを借りてからは、すっかり夜の仕事中心の生活になっていたが、それでも週に最低3日は、昼間の仕事があったわけで、それがなくなり、ずいぶん気分的にせいせいした。

ちょうど、寒い時期で、お客さんの予約も少なかったので、私は目黒のマンションの片付けに取り掛かった。

まず、男物の服のほとんどを捨てた。
スーツ、Yシャツ、ズボン、ネクタイ、わずかに残っていた男物の下着など大きなゴミ袋に5つほどになった。
スーツやコートの中には、いくらか上等なものもあったが、ためらわずに捨てた。

それから、大学教師としての自分を支えてくれた書籍の整理を始めた。
これは、あまりに多すぎてすぐに全部は片付かなかったが、自由が丘の古本屋に出張してもらい、とりあえずの分を引き取ってもらった。
結局、1年ほどの間に4度来てもらい、ほとんどの書籍と雑誌を売り払った。

いずれこのマンションも処分して、男性だったころの自分と決別するつもりだった。

1週間ほど片付け中心に過ごして、新宿のマンションに戻ったあたしは、常連のお客さんの相手をしながら、3月から本格的に専業の娼婦になるための準備に取り掛かった。

まず、顧客名簿を整理した。
顧客名簿はすでに100人を超えていたが、1~2度だけでご無沙汰の人や、あまり質の良くない人は除いて効率化をはかった。

それと、新宿の街を拠点に本格的に商売をするとなると、やはりバックアップが必要になる。
これは、少し前に武田社長の筋で話を通してもらった某組織の幹部と地下街の喫茶店で会って契約を結んだ。
バックアップ料は、社長の顔で少し安くしてもらって月額5万円。
高いと言えば高いが、これで安心して商売ができる。

新宿のマンションの家賃+光熱費とバックアップ料、それに自分の食費や最低限の美容経費で約20万円になる。

これから、あたしは最低でも、それだけの金額を身体で稼がなければならない。

月の水揚げ目標は最低40万、平均客単価2万として20人。
これは、10~1月の実績からして、かなり現実的な数字だった。

いずれは、月額60万円(30人)を目指したい。

ただ、身体のことを考えて週1度は必ず休みを取ることに決め、週中の水曜日には予約を入れないことにした。

(続く)
プロフィール

風祭順子

Author:風祭順子
10年前まで、男性として大学講師をしていました。
その後、女装マゾの世界に溺れ、とうとうニューハーフ娼婦に堕ちました。
約8年間、毎週2~3日、娼婦として男性の性欲のお相手をする日々を過ごしました。

このブログでは、「なぜ、私は堕ちたのか?」、そのいきさつを書いてみようと思います。
画像は、4年前の私の姿です。

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